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妄想日記「初恋と巡る」

佐藤優 22歳 大学生

初めての教育実習、1日目が終わった。後は、明日の授業計画を担当教師に提出して帰るだけ。先輩たちから、「時間があるうちに体力温存すべし!」とのアドバイスをもらったので早く帰って眠ろうと思う。その時だった。ガラガラッと教室のドアが開いた。飛びあがった心臓を押さえながらドアの方を見ると、同じく左胸を押さえて立ちすくむ女子生徒がいた。私は、ホッとして見習い教師という立場を忘れ、フランクに話しかけてしまう。「あれ?どうしたの?」すると、女子生徒はキュッと口を結んでから「すみません。忘れ物を取りに来ただけです。」といって顔を逸らし、左の角後ろから二番目の席の引き出しを開けた。私が、そのまま視線を送っていると彼女はまるで万引きでもするみたいにサッと引き出しからスマホを取り出しバックに入れた。たしか、この高校は携帯を持ってくることは校則で禁じられている。私は、そのことを思い出しはしたが、初日で生徒に嫌われたくないというヘタレな気持ちに負け、肩をすくめて言った。「今回は、見なかったことにするから。今後は、気を付けてね」すると、彼女は顔をあげて私の首から下げた名札をじっと見てからこう言った。「ありがとうございます。佐藤さん」そうして、振り返らずに颯爽と教室を出ていく。「佐藤さん…」私は、彼女の言葉を反芻しながら見習い教師としての自分の失敗を苦々しく噛み締めた。

教室の戸締りを確認して、電気を消したときも先ほどの「佐藤さん」の残像が耳に張り付いている。でもその声は、彼女の声ではなく初恋のあの人の声に変換されていた。彼も、最後まで私のことを「佐藤さん」と呼んでいた。だからだろうか。先生と呼ばれなかったことよりも、彼を思い出してしまったことに私は動揺していた。

高校生になるまで、人を好きになったことがないわけではなかった。だから、ただ好きになることを恋と呼ぶのならば私の初恋の相手は、幼稚園の先生という事になる。けれど、高校へ進学し彼と出会った瞬間それは今までの好きとはまるで違うという事が分かった。遠くで眺めて愛でたい好きではなくて、口に入れて食べてみたいくらい好き。そんなことは、人生で初めてだった。だから、私は彼に「初恋」という名前を付けた。そして、はじめは彼と過ごす何もかもが新鮮でものすごい勢いで私を大人にしていく気がしていた。例えば、ブランデーの入ったチョコレートを二人で齧ったことや、首筋に彼がつけた赤いタグや、彼との手紙に付けたトロピカルな匂いの香水や…そんなこと一つ一つが私を爪先立ちさせていた気がする。そうだ、当時はスマホではなくて二つ折りの携帯が手放せなかった。いつ、彼からメールが来るかわからないからだ。もしかしたら、先ほどの生徒もそうした理由でスマホを学校に持ってきたのかもしれないな、と思った。私は、自分の頬の筋肉が動くのを感じる。そっと、触れてみる。すると、私の顔半分が緩く笑っていた。ああ、ここは私の通っていた高校とは違うのに、学校という場所は総じて同じような空気と構造で私を錯覚させる。

教室から出ると、コの字に曲がった踊り場と階段がある。ここで、クラスの違う彼と移動教室ですれ違うと友達にばれないようにアイコンタクトしたっけな。階段を降りると、中庭に沿って廊下が続く。廊下の先は職員室と保健室。たまに、どうしても会いたくなると仮病を使って彼と保健室で落ち合った。保健室の前を通り過ぎると、下駄箱が本棚のようにズラッと並んでいる。この下駄箱の前で、私は彼にチョコレートを渡し、彼は私の部活が終わるのを待ち、時におはようと言いあった。すべて、昨日のことのように思い出せる。ただ何者でなくてもよかった、彼の彼女でありさえすれば良かった昔の私は今、教師になるために学校に戻ってきた。気楽だったな、と思う。だけれど、何者かになろうともがいている今の方が不思議と楽だとも思った。彼の言動に一喜一憂しなくていい日々、将来に向けてひとつづつ単位を取る今。保険に入ったわけでもないのに、頑丈なレールの上を歩いているような安心感に包まれている(たまにそれがつまらなく思えたりするのだけど)。

下駄箱で靴を履いて、外へ出るとすっかり夜の帳が下りている。くっきりと縁どられた三日月を見上げて「そういえば、私に教師が向いてるって言ったのも彼だったな」と呟いた。どうやら私の人生は、初恋と共に巡っているみたいだ。

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歌絵文作家 岡山生まれ 本の虫